夏休みの自由研究題材を上野公園で偉人像をきっかけにして探す
という目的で上野公園を隅から隅まで探索。
上野公園には、夏休みの研究課題を探すのに苦労しないくらいにたくさんの題材やきっかけ、導入部の像が点在しています。
上野公園をくまなくご案内します。課題を見つける旅に一緒にでかけましょう。
また、夏休みの自由研究の題材だけではなく、動物園に行った帰りに少し公園内を散策すると新しい発見がキットあります。
西郷隆盛
文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日(49歳没)
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男
江戸城無血会場など幕末、明治維新期を壮絶に生き抜いた姿が非常に興味深く、自由研究には一部に絞り込まなければ全部をカバーして語ることは難しいかもしれません。
時代や出来事などで分割した一部を題材にするのが良さそうです。
野口英世
1876年(明治9年)11月9日[1] - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。キリスト者。
福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)[1][2] 出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がったが、後にその業績の多くが否定された[3]。黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
医学、化学の分野への興味を換気したいご両親には非常に良い題材になりそうです。皆さんがしっていいるような伝記の世界から1歩深く調べることで人物像が浮かび上がると良いですね
王仁博士
王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと記紀等に記述される伝承上の人物である(記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解があるが、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
少し難しい題材ではあるが、日本書紀や古事記とはどのようなものかなど、周辺情報を固めて王仁の偉業を表現するなどアプローチ方法は幾つか考えられる
天海僧正毛髪塔
(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸城鎮護のために寛永寺を設立。元々は上野公園は寛永寺でしたから、その観点でも題材になりますし、天台宗と宗教全体の俯瞰的な研究なども考えられます。
正岡子規記念球場
(まさおか しき(まさおか つねのり)、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野公園に正岡子規の愛称がついた野球場があるのをご存知でしょうか。正岡子規は上野公園博物館横で野球をやったという文書を残していたり、野球好きでした。「打者」「走者」「直球」などの用語も正岡子規が翻訳したことばです。
正岡子規本人のことだけでなく、野球の歴史なども研究対象のきっかけになる球場だと思います。
小松宮彰仁親王銅像
(こまつのみや あきひとしんのう、弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 1903年(明治36年)2月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。
伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧・久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督など軍人としての経歴が長いが、北海道開拓に関わるなどの業績もあり、一部を取り出して研究を深めると明治期の日本の様子がよくわかる研究内容になると思われる。
アントニウス・フランシスクス・ボードウィン博士像
(Anthonius Franciscus Bauduin、1820年6月20日 - 1885年6月7日)は、オランダ出身の軍医。父はフランシスクス・ドミニクス・アンドレアス・ボードウィン、母はマリア・ヤコバ・マション。
養生所、医学校教頭としてオランダ医学の普及に努めたほか、本国からクーンラート・ハラタマを招聘するなどして物理学や化学の日本の教育制度の充実を図った。また、上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言した(現在の上野恩賜公園)。上野公園に業績を顕彰する銅像「ボードワン博士像」がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ここに記載されているように、上野公園の実質的な生みの親である。上野公園の歴史を調べるなど課題がみつかると思います。
彰義隊の墓
(しょうぎたい)は、幕末期の1868年(慶応4年)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。
江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
彰義隊と新政府軍との上野での対決、上野戦争を中心に戊辰戦争のまとめなども中学生くらいなら題材になり得るのではないかと思われます。
時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)
東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。
今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を
思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の
目印として、この時計台を寄贈しました。
建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
建立有志一同
やはり、夏休みの自由研究の題材として「戦争」は避けられないのではないでしょうか。
京成電鉄 博物館動物園駅跡
1933年(昭和8年)の京成本線開通に合わせ、東京帝室博物館・東京科學博物館・恩賜上野動物園や東京音樂學校、東京美術學校・旧制第二東京市立中学校などの最寄り駅として開業した。老朽化や乗降客数の減少が響いたため、1997年(平成9年)に営業休止、2004年(平成16年)に廃止。
駅舎やホームは現存しており、京成電鉄は改修して2018年秋に公開した
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
子どもたちが好きな電車。まだ駅が残っているが営業終了している駅、題材になりそうですね。